小説

『の、あとで』平井玉(『桃太郎』)

「あの時は、おもしろかったな」
ぼそりと、犬が言った。
「旅はおもしろかったが、鬼と戦ったのはおもしろかったかどうか」
怖かった、とはさすがに言えなかった。鬼は人の倍ほども大きかった。猿は恐怖のあまり狂ったようになり、無我夢中で飛び回り、手に触れるものを全てひっかきまくった。鬼のごつごつした背中をよじ登って角を掴んで耳や目を襲った。その間に、犬が鬼の足を噛みちぎり、喉笛に食らいついた。最後は桃太郎が刀で成敗した。実は鬼自体は二人ぼっちだったのだ。後は、鬼に使われていた人間の悪党どもで、鬼さえやっつければ犬に蹴散らかされるばかりの小物だった。
「雉の奴が、赤鬼ばかり襲ってなあ」
猿が思い出して言った。雉の雄は、目の周りが赤い。なわばりのために他の雄と戦う鳥だから、赤い色ばかりつつきまくるのだ。
「おかげで、青い奴は俺が一人で倒したようなもんだ」
「俺も目をひっかいたぞ」
しばらく、俺がああした、いや俺が、と言い合った。いつものことだ。
「あの頃が、一番よかった」
犬の声の何かが猿の心をゆすぶった。猿は落ち着くためにまた犬の毛づくろいを始めた。
「お前、きれいだな」
初めて会ったときはまだら毛だと思っていた犬は、領主の犬となって大事にされるようになると真っ白な犬に変わった。
「ノミもいないぞ」
犬はむしろ憂鬱そうだった。
「昨日風呂に入ったのだ」
「入れられたんだろう」
猿はにやにやした。桃太郎のまだ小さい嫡男が、犬を気に入っていた。やたらまとわりつくらしく、そのために日々きれいにさせられるらしい。実際、犬の毛はふわふわだった。
「シロや、シロってな」
犬は横目でじろりと見たが、牙は剝かなかった。
「俺は犬だ」
そうだ。俺たちには名などいらない。なぜなら主人などいないからだ。しかし、犬には昔主人が有った。元々、武家の飼い犬だったのだ。犬をかわいがった主人が亡くなった後、武術狂いの息子に犬追物の的にされ、矢傷をおって半死半生となって館から逃げ出した。それが、旅の間にぼそぼそと語った犬の来歴だった。主人を捨てた犬は、名前も捨てたのだ。
「どうして綱をつけられている」
猿はそれが気になっていた。
「勝手に歩き回ると、村の者が怖がるというのだ。なにせ、鬼殺しだからな」
城の中だけ自由にしてよい、と言われたという。
「じゃあ、今日はどうした」
「・・・嫌になったのだ」
猿は毛づくろいをやめた。どちらも話さず夕日が海に吸い込まれていくのを見守った。
「俺は、国を出ようと思う」
すっかり沈んでから、犬が言った。
「今の暮らしも悪くないだろ。食い物も、雌も、余るほどだ。子どもだってかわいいし」
猿にはもうひ孫までいるのだ。母親にしがみついている子ザルは皆かわいい。自分の子ならなおさらだ。
「雌には昔っから苦労しておらん。犬は、やりっぱなしぞ。子なんぞ知らん」
えーひどいオス、と思ったが、そこは種の違いだから仕方が無い。
「まあ、食い物はなあ。昔はいつも、腹が減っていた」
「柿太郎も悲しむぞ」
桃太郎の息子の名である。いや、本当は違う名らしいが、秋に生まれたので勝手にそう呼んでいる。
「童なぞ、すぐに育って犬の事なぞ忘れるわい。桃太郎も、忙しいしの」
桃太郎は領主の仕事がきついらしい。たまに犬と散歩するときも、今年は雨が少なくて心配だの、隣の領主が信用ならないだの、愚痴ばかりだと聞いていた。
「わかるよ」
猿もいわば領主のようなものだ。なわばりを守り、他の雄をけん制し、群れに君臨している。猿は桃太郎の気持ちも、犬の気持ちもわかるのだった。どちらももう口を利かなかった。空が暗くなり海が黒く変わっても、鬼ヶ島が黒々と影を落とすのをじっと見守っていた。

1 2 3