小説

『の、あとで』平井玉(『桃太郎』)

 猿は今の暮らしにおおむね満足していた。新しい群れの頂点に君臨していた。多くの雌に子供を産ませた。餌が少ない冬には、城へ行けば温かい部屋でもてなされ、食事が提供された。季節がいい時は森にいて、勝手気ままに暮らすことができた。他の雄は自分を上目づかいに見、目が合わないようにこそこそした。
――あいつ以外はな
若い一頭が、のびのびと大きく成長していた。前のボスの血筋だ。
――あいつは、俺の活躍を知らんからな
猿はしばし昔にひたった。その頃、生まれ育った群れのボス猿に挑んで敗れ、はぐれ者だった。いつも腹を空かせていた。仕方なく人里に近づいた時、体がでかく、変な髪型をした人間の若い男に会った。男は団子をくれた。オオカミのような犬が横にいたが、猿に吠えかからなかった。団子を貪り食う猿を見る目が、「俺も同類だ」と言っていた。その日から猿は孤独ではなくなった。やがて雉を加えた一行は、海を渡り、鬼を倒し、近隣の村を救った。桃太郎(変な髪型の男の名前。名前もちょっと変だ)はちゃんと元服し(素性は分からないが、まああれだけ活躍すれば武士といっていい)今は大桃太郎義稙と名乗って領主となっている。大、桃太郎ではなく、大桃、太郎だ。犬と雉は桃太郎(猿にとっては、なんと名乗ろうが、桃太郎だ)の城に残ったが、猿は近くの群れのボスに挑み、勝って群れを奪った。鬼を倒したという評判に乗っての速攻で、相手は戦う前から目が泳いでいた。
――楽勝だった。
猿はその戦いを思い出すと、にやにやしてしまう。鬼ヶ島はまじでやばかったので、あまり思い出さないようにしている。しかしボス戦は栄光の思い出だ。戦う前にどれだけビビらせられるか。それが大きなポイントである。だが、あの若い猿は、鬼の恐怖を知らない。ボスが鬼と戦った過去よりも、今徐々に拮抗しつつある互いの肉体に目が向いているのだ。
「おい」
若い猿をどうするか考え込んでいたので、犬に声をかけられたときあやうく木から落ちそうになった。犬は何も言わなかったが、歯がすっかりむき出しになって、笑っていることが分かった。
「猿も木から落ちることもある。お前さんが桃太郎に綱付けられて散歩されてるのと同じでな」
犬の鼻がうごめき、牙が根元まで丸見えになった。その牙が、鬼たちの脛をかみちぎっていたことを思い出し、猿は肛門がきゅっと閉まった。軽く弾みをつけて犬の背に飛び乗ったが、オオカミほどもある犬はびくともしない。牙が見えなくなって落ち着いた猿は、一心に犬の毛をつくろい始めた。犬が牙をおさめて、のどがぐうっと鳴るのがわかった。
「昔を思い出すなあ」
猿は心から言った。
「俺はお前の背。雉は桃太郎の肩」
犬はくつくつと笑った。
「あいつは飛ぶのが下手だからなあ」
雉が仲間になって初めて、飛ぶのが下手な鳥がいることを知った。体は鷹よりも大きく、やけに派手な毛色をしているが、その羽ときたらやけにばさばさいうばかりで全然早く飛べないのだ。びっくりすることに、奴は走る方が速いのである。だから雉は、旅の間はずっと桃太郎の肩に乗っていた。初めは「日本一」の旗に乗っていたが、ぐらぐらして落ち着かなかったらしい。雉が桃太郎の旗の上でぐらぐら揺れていたり、肩で眠りこけてバサッと落ちたりした姿をそれぞれ思い出し、犬も猿も笑った。やがて犬は笑いながら、飛ぶように走り始めた。猿は四肢に力をこめて体に取り付き、曲がるときには尻をずらしてバランスを取り、木の根を飛び越えるときには自分も跳ね上がった。街道に出、ますます速さを増しながら海へ向かった。すれ違う武士の馬をいななかせ、百姓の連れた牛を暴れさせながら走り抜けた。砂浜に出ると徐々にゆっくりとなり、とんと高い岩に登って突端まで行くと、ゆっくりと腹ばいになった。猿は背から滑り降りて犬の体にもたれて座った。はっはっはと舌を出して涼む犬の脈動が伝わってきた。いつの間にか日が暮れて、赤く大きな太陽が、海の向こうに沈もうとしていた。夕日と猿の間、赤く光る海の中に島影が黒々と影を落としている。鬼ヶ島だ。今は、温かい血の通った生き物は何も住んでいない。犬は四肢を伸ばし、腹まで岩にぺったりとつけていた。目だけが、鬼が島をじっと見つめている。

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