小説

『お留守番』大場鳩太郎(『オオカミと七匹の子ヤギ』)

 ふと真っ暗だったはずの目の前の覗き穴から微かに光が漏れてきていた。周囲の埃を照らしている。
 気になってもう一度、目を近づけてみる。
 そして恐ろしいことが起きた。本当に恐ろしかった。
 僕は気が狂ってしまいそうになった。全然愉快なことでもないのに喉の奥から笑い声が零れてきて、必死で口を押さえてそれを圧し留める。
 目の前のことを理解できない。何か納得のいくような説明が欲しかった。
 さっきまで黒かった穴の向こう側には再び外の景色が戻っていた。灰色のコンクリートの天井と壁があり、左手には辛うじて緑色の階段の手摺が見える。
 そしてその場所にはお母さんが立っていた。
 つい今しがた目にしたばかりのスーツ姿だった。
 きょとんとした顔をして、向こう側からこちらを見つめている。
 お母さんはおもむろに腕を掲げた。手前に差し出されレンズの歪みによって巨大化された指先が黒い何かを摘んでいた。ペラペラと薄くて長方形をしている。
「これ、わかる? 黒テープよ? 覗き穴に貼ってあったわ」
 視ている僕へとそれが何であるのか説明をする。つまり先ほどまで外の様子がうかがえなかったのは黒テープのせいだったと言いたいらしい。
「……本当にお母さんなの?」
「そうよ。だから早く開けなさい」
 言葉だけを信じることはできなかったけれど、確かに姿はお母さんそのものだった。 
 でもお母さんが帰ってくるわけはない。何故なら僕はさっきお母さんと帰ってきたばかりなのだから。
「どうしたのカズ?」
 ふと後ろのほうで声がして、僕はびくりと肩をすくめる。
いつの間にかシャワーの音は止まっていた。お母さんがお風呂場から出てきたのだ。
 ぴちゃぺたんぴちゃぺたんと濡れたまま素足でこちらに近づいてきている。
「話し声がしたけど誰かきたの?」
 心配そうにうかがう調子の声。
 本物が二人いるはずはない。つまりそれは今、後ろにいるお母さんと、ドアの向こうにいるお母さん、そのどちらかが偽者ということだった。
 偽者。つまりお母さんに化けているのだ。あいつが。
 僕はふと後ろにいる一緒に帰ってきたほうが偽者なのではないかと思った。
 何故なら、これから警察に行くのにわざわざお化粧を落すなんて必要のないことだからだ。「お化粧」とはつまり「変装」のことで、もし今振り返れば、本当の姿を現したあいつがいるのかもしれない。
 だとすれば振り返るなんてことは隙を与えることはせずに、直ちにドアを開けてこの場から逃げ出さなくてはいけなかった。
 けれどももし向こう側にいるお母さんこそ偽者だとしたらどうだろう。それではうちのなかにあいつを招き入れてしまうことになる。
 どちらも偽者に思えたし、同時に本物のように感じる。
「カズ?」と二人のお母さんが僕を呼ぶ。
 今、僕は選択に迫られていた。
 ドアを開けるべきか、開けないべきか。
 そして僕は……。

1 2 3 4 5 6 7