小説

『お留守番』大場鳩太郎(『オオカミと七匹の子ヤギ』)

 僕が怖がりなことを知っている誰かが脅かそうとしているのかもしれない、と思った。
 この時間に僕が一人で留守番をしていることを知っている人は、ここの階段の人たちや仲のいいクラスメイトくらいしか知らない。
 けれど彼らのなかで似た声をした人物は思い当たらなかった。
「お母さんだよ。ここを開けておくれ」
 また声がした。
 そしてこつこつと乾いたノックの音が錠の近くで響く。
 僕は思わず一歩下がっていた。
「……」
 果たして悪戯なのだろうか。
 頭のなかで、変質者、泥棒、誘拐犯といった単語が浮かんでくる。
 こういう場合は毅然とした態度で、追い払ったほうがいい。
 僕は震える声でけれどはっきりと言った。
「お母さんはそんな声じゃないです」
 それから普段はお母さんが鍵を開けて帰ってくるので使っていない素早く防犯用のチェーンをかける。
「……」
 相手からの返答はなかった。
 しんと静まり返ったままで、茶の間のほうからテレビの音が聞こえてきていた。 
 僕は何も言わずにただドアを睨む。
 それからドアと身体が擦れる音がした後で階段を下る足音が聴こえてきた。
 その足音は次第に遠ざかって消えていくようだった。
 僕はおそるおそるドアに近づいてみるともう一度覗き穴を覗いてみた。
 さっきまで何も映っていなかったレンズの向こう側には、蛍光燈によってちかちかと明るくなったり暗くなったりしているコンクリートの地面と向かいの赤いドアがあった。
 どうやら誰かは立ち去ったらしい。
 しばらく息を殺して外の様子を覗いていたけれど誰もやってこなかったのでドアから離れることにした。

 玄関のほうで錠の下りる音がした。「ただいまー」という明るい声が耳元に飛んでくる。
 お母さんが帰ってきたのだ。
 なにか重いものがぶつかるような音が届いてくる。そういえばドアがチェーンをかけっぱなしだったのを思い出す。
 僕は慌てて玄関まで土足のままドアの前に立ちチェーンを外して、お母さんを迎えいれた。
「カズぅ」
 お母さんは恨みがましそうな目で僕を睨んでから、軽く頭を小突いてくる。
「あんたはしっかり者だけどうっかり者なところもあるわよ」
「ごめんなさい」
 僕は怒られたのに嬉しくなって笑顔になってしまっていた。
「変な子ね。まあいいいわ御飯にしましょ。お母さんお腹減っちゃった」
 お母さんは手に提げていた白いビニール袋を僕に手渡した。
 袋には「イナムラ」と赤い文字が入っている。
 イナムラは近所にあるスーパーで、出入口のところに白い文鳥がいる鳥篭がかかっていているお店だ。休日になるとお母さんと一緒に買物に行き、お菓子を買ってもらうことがよくある。
 中には透明のプラスティックのパックが三つ入っていた。チャーハンが二つに六個入りの餃子が一つ。お惣菜コーナーで買ってきたらしい。
 「お母さんはおおちゃく者だよ。最近はいっつもイナムラだもん」と僕は言った。
「違うよ。母はいそがし者なんだよ」するとお母さんは腰に手を当て、胸を張った。
 僕は笑う。さっきまで寂しかった蛍光燈はいつの間にか明るくなっていた。テレビをつけなくても雰囲気が明るく穏やかなものになっている。
 食べながら僕は今日、学校であった面白かったこと、サッカーをして遊んだことなどを話した。
 さっき起きたことにていては、なにも言わなかった。せっかくのご飯が不味くなるような気がしたからだ。

1 2 3 4 5 6 7