小説

『オオカミの白い手』こゆうた(『オオカミと七匹の子ヤギ』)

 都さんは持っていたハンドバックから化粧ポーチを取り出すと、中から白粉の入った丸い缶を出して化粧直しをはじめた。ひと叩きで顔のほとんどを覆い尽くすほどの大きなパフだった。大胆な化粧直しを鏡越しに眺めながら、わたしは何だかなあ、とひとり苦笑していた。
「美和ちゃん、どうかした?」
「いいえ、何でも」
 天真爛漫というか、自分勝手というか。
 どっちなのかわたしには判らなかったけれど、引け目を感じて人目を避けるような生活をしている自分にはない、あっけらかんとした強さを持っている都さんがちょっとうらやましかった。迷惑な人だけど、これはこれであり、なのかもしれない。
「さっき買った香水もつけようかしら」
 都さんがはしゃいだ声を上げた。
 ハンドバッグを探る都さんの右手をわたしは黙って見つめている。細かな皺としみの浮きでたその手はやがて香水の瓶を探りあてる。摘みあげた小さな瓶を照明に晒すようにして、都さんが目の高さまで持ち上げた。
「きれいねえ」
 ほおっという吐息とともに吐きだされる賛美の声。複雑にカットされたガラスの瓶がさまざまな角度に光を反射する。見惚れていたからだろうか、都さんは何の前触れもなく瓶を取り落とした。
「あっ」
 声を揃えて小さな悲鳴を上げた時には、香水の瓶は化粧室の硬い床に叩きつけられていた。割れた破片が周囲にはじけ飛ぶ。慌てて都さんは腰を屈め、割れたガラス片を拾おうとした。
「あっ」
 さっきとは違う種類の「あっ」だった。指先をガラスで切ったのだ。都さんの右手の人差し指の先からぷっくりと血の玉が膨らんでいく。それを見たわたしは動転して思わずその指先に手を伸ばした。血を止めなくては、と思ったのだ。
「触らないで!」
 聞いたこともないような鋭い声がわたしに投げつけられた。刺すような視線に思わずたじろぐ。おろおろとしながらも、わたしは都さんに訴えた。
「だって都さん、血が……」
「いいから! あたくしのことは放っておいてちょうだいっ」
心配するわたしの顔を、都さんは睨みつけるように見上げて冷たく云い切った。
 一体どうしたというのだろうか。さっきまでの親密な空気は一瞬で流れ去り、きっぱりとした完全拒絶の見えない壁がわたしたち二人の間に立ち塞がっていた。
狭い化粧室には、むせ返るようなバラの匂いだけが立ちこめていた。

 屋敷の前で気まずく別れてから一週間経った。
 都さんの豹変ぶりに戸惑っていたわたしは、あれから屋敷に近づくことができないでいた。化粧室を出たあとも、わたしたちは口数少なくバスの窓の外ばかり見て帰りの時間を過ごした。

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