小説

『オオカミの白い手』こゆうた(『オオカミと七匹の子ヤギ』)

 覗きの趣味なんてない筈だったのに、気づいたら覗いていたのだった。
 夜、コンビニに向かうのに階段を下りて右に曲がる。月極の駐車場を挟んでその隣に古めかしい屋敷があった。
 洋館風の建物で、とんがり屋根の上には風見鶏がついている。ただもう錆ついてしまっているのか動く気配はない。風見鶏はいつも正面から見て左に顔を向けてじっとしていた。満月と並ぶ夜には、月に恋焦がれるように、あるいは、自分がはるか昔に産み落とした卵がそこにあるのだとでもいうように、ひたむきな視線を送り続けていた。
 圧巻なのは庭に咲き誇る白いバラの群生だった。庭中に咲き乱れたバラにわたしは目を奪われた。月の光のもとで見ると息を呑むようなうつくしさだ。濃い緑色の葉は夜に沈み、白い花びらだけがぽうっと浮かび上がる。まるで月光を吸いとって、それ自身が光を放っているかのようだった。
 屋敷の窓が厚いカーテンに覆われているのをよいことに、わたしは夜の庭を遠慮なく覗き込んだ。通りと庭とを隔てる白い柵は胸のあたりまでしかないので、見ようと思えばいくらでも見られるのだった。
 コンビニの帰りにわたしは決まって立ち止まる。あたためてもらった弁当が冷めるのも忘れて、目の前の幻想的な光景をひたすら眺めている。
 夜の暗闇に漂う白い花びらに吸い寄せられた一匹の昆虫のように。

 珍しく朝はやく起きた。
 仕事を辞めてまだ一ヶ月しか経っていないというのに、すっかり身体がなまっていた。わたしは何とかベッドを這いだすと、コーヒーを淹れるために湯を沸かした。
 心機一転とばかりに越してきたコーポは2DKの典型的な新婚さん向け物件で、わたしはそこの二階の左端に住んでいる。独身で、職なしで、おまけに恋人とは別れたばかりだったから、正直肩身は狭かった。住民と顔を合わさないよう、いつの間にか昼夜逆転の生活を送るようになったのも仕方ない、と自分に云い訳している。
 今日はやく起きたのには理由があった。ハローワークに行かなくてはならないのだ。失業保険の認定日にあたるこの日に遅刻する訳にもいかない。しばらくの生活がかかっているのだ。
 のんびりしたつもりもないのだが、身支度を整え、家を出る頃にはバスの時刻ぎりぎりになっていた。リズムを取り戻すことができないまま、わたしは部屋を飛び出した。忙しい朝を毎日どうのり切っていたのか、やっぱり思い出せなかった。
 小走りで階段を下り、右に折れ、屋敷の横を通り過ぎようとした時、何か白くて大きな物体が視界に飛び込んできた。思わず横を向き、ちらりと庭に目をやると、白い物体の正体が帽子であることがかろうじて判った。今まで見たこともないほどの大きなつばのある帽子だ。
 一瞬足を止めかけたが今は時間がない。わたしは好奇心を抑えて足を前に進めた。
陽の明るいうちに庭を眺めることがなかったせいか、屋敷の住人をわたしは知らなかった。会ったこともなければ見たこともない。今のがそうだったのだろうかと考える。白い帽子だけが脳内に残像として留まっているだけで、つばに隠れた顔を見ることはできなかった。どうやらその人物は庭のバラに水やりをしていたようだった。
 どんな人が住んでいるのだろう。
 あれこれ考えを巡らしながら、わたしはバスの停留所に急いだ。

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