小説

『カメはウサギを追いかける』橋本成亮(『ウサギとカメ』)

 子供のころに描いた夢を打ち砕いたのは、他の誰でもない洋だった。
 こいつは県内の陸上界では超がつくほどの有名人で、俺ももちろん名前は知っていたし大会で走っているところを見たこともあった。
 ただ、組み合わせの関係で一緒に走ったことは無かった。俺は中学の県大会では準決までしか残れなかったし、そのブロックに洋はいなかった。
 そして、去年のリレメンを決めるタイムトライアルで、初めて洋と一緒に全力で走った。
 すげぇ、速ぇ。
 自分が一緒に走っているというのに、俺はその後ろ姿に魅了されてしまったんだ。
 こいつには勝てない。
 才能ってやつを見せつけられた気がしたし、それは乗り越えようのない壁に思えた。
 それまでにも、大会や記録会で誰かに負けたことはもちろんある。それでもそんな感情を抱いたことはなかった。
 なのに、洋と勝負した時は、ただのリレメン決めのタイムトライアルなのに、それに気がついてしまった。
 外から見ているだけじゃ気づけない、絶対的な差。それを初めて感じたのが、その時だった。
 それでも、俺は諦められなかった。
 もっと速くなって、こいつに勝ってやる。
 それがあまりに現実的でない目標だと分かっていても、自分に言い聞かせた。県大会レベルでしかいられない俺が、全国トップクラスの洋に勝ちたいなんて大言壮語にも程がある。誰にも言えないその決心を胸に、練習を積み重ねた。
 俺がちょっとタイムを縮めれば、洋はそれ以上にタイムを縮める。元々あった差は広がる一方で、俺の目標へ向かう気持ちもどんどんすり減っていく。
 勝てない、抜けない、諦めたい。
 そんな気持ちが頭の中を支配してしまう。こんな気持ちになるくらいなら走ることを選ばなければ良かった。
 走る楽しみは、喜びは自分の成長だと言う人がいる。他人に勝てなくても、自分のタイムが縮めば成長を確認できる。他人との勝負じゃなくて、過去の自分に勝てることが喜びだ、と。
 その喜びがあることは理解できても、競技として走り続けている限り、洋に勝ちたいという気持ちを捨てられない。自分が一番になることを諦められない。
 一番速くなりたい、誰にも負けたくない。
 俺はそんな憧れを持つことを許されていない。
 スプリントの神様は俺を選ばなくて、洋を選んだ。才能の世界ってそういうものだ。
 洋と一緒に走るたびに、こう言われている気がする。
 『お前はここまでたどり着けない』
 そんなのは自分の被害妄想に過ぎないことは自覚しているけど、俺の走りの限界をそのたびに再確認してしまう。
 幼いころ、速くなるだけで楽しかった純粋な気持ちはもう無くなってしまった。無くなってしまったというより、勝つ喜びに上書きされたという方が正しいのかもしれない。
 競技者として走ると、どうしても順位付けられる。その順位に多少の変動があっても、それは同じ才能の枠の中での話だ。
 サッカーやバスケットみたいに複合的な技術が求められる競技なら話は違うのかもしれないけど、いくらスタートが上手くなっても、ペース配分が上手くなっても、最高速を出せるのは才能の問題だ。生まれつきのものだ。
 技術は練習すれば上達出来るけど、スピードは与えられた才能を磨くことでしか伸ばせない。限界は人それぞれに決まっている。
 嫉妬もできないほど輝いた才能の前で、それでも俺は諦められない。
 才能ってものが目に見えないから厄介なんだよ。
 洋に勝てるほどの才能を持っていない。それははっきり自覚している。
 ただ、もしかしたら。もしかしたら明日、俺の気づいてなかった何かが目覚めて、洋に追いつけるかもしれない、勝てるかもしれない。
 そんなファンタジーを信じられるほど幼いわけじゃないけれど、それでも俺はその可能性を捨てられない。

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