小説

『カウンツ』こがめみく(『番町皿屋敷』)

 思えば、キクさんは最初からこうだったのだ。
 彼をとりまくどんなものにも、彼は同じ優しい微笑みを返す。そのことは一方で、この世界の何者も、彼との間に常時保たれる一定の距離をこえ、彼に触れることはかなわないと意味していた。私も例外ではなかっただけの話だ。
 何度彼のレコード探しに付き合っても、それが彼のなかで気を許した相手への気軽な依頼とされる様子はなく、私は毎度のように謝意を表された。 何度夜をともにしても、例えば幼子が母のぬくもりに触れるように、彼が自然に私の肌を求めるようなことは、一度たりとてなかった。
 そうだ。仮に真夜中の生霊が、平素の穏やかな彼とは別に存在するもう一人の彼であるという点で、誰にも触れられぬキクさんの本質と近いところにあるものだとする。キクさんがもし私のことを真の意味で気の置けない相手として認めているのなら、生霊はあんなしまい込まれ孤独を抱えたような奥の部屋ではなく、この私の前に現れるのではないか。それなら、胸の内を伝えたい相手を引き留められる体を持たないがために、闇雲に叫び続けるのを余儀なくされることもない。私の前――情念で肥大した自らの心臓をも晒せる相手の前で、相手の瞳だけをしっかりと捉えながら、明朗な発音で胸中を明かすだろう。
 しかし、そんなことはありえない。
 きっと、これまでもこれからも、キクさんが本当の意味で私を見ることはないのだ。今更のように突きつけられた現実に対して、受け入れることも立ち向かうこともできないまま、私は力なく座り込んだ。

 案の定、というべきなのか。そんなことがあってからも、私とキクさんの日常はなんの変化もなく過ぎていった。
 ただひとつ変わったことといえば、真夜中の生霊の声が日に日に激しくなっていくことだ。声は、膨らみ続ける情念によって空気中に押し出され、体を絞りきったような残響を引きずる。
 私はそれに、恐怖を感じるでも煩わしさを覚えるでもなく、ただ毎夜静かに耳を傾けていた。

 
 そんな日々が数日続いたあとの、ある日のことだった。

「誉ちゃん」
 キクさんが、作業していた手を止め、ふいに私の名を呼ぶ。
 私は顔を上げた。視界の真ん中にキクさんの顔がある。こんなふうにしっかりと見つめ合うのは久方ぶりだった。
 キクさんは黙ったままだ。
「キクさん?」
 私は彼の名前を呼びかえす。
 キクさんの口が動いた。
「ごめんね」

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