小説

『カウンツ』こがめみく(『番町皿屋敷』)

 私は、自分が本当にレコードを好きなのかどうかわからなかった。
 キクさんが言うように、私は自分のレコードに関する知識が相当のものだと自負している。しかし、何かを好きだということと、それに関して詳しいということとを安易に等号で結ぶのは、どこか危うい行為であるような気がしてならなかった。
 私には、レコードを好きになった、という記憶がない。気づいたときには既に、自分の生活にレコードが根付いていた。レコードなしの生活が考えられなくなった直接のきっかけが、全く思い出せないのである。
 何かにのめり込むとき、最も根幹のところで確固として存在するはずの、何かを「好き」という気持ち。それがあやふやなまま放置され、一方で知識量だけが加速度的に増えていく。まるで、今にも折れてしまいそうなか細い体に不釣り合いに大きな頭を頂いた、不恰好な人形のようだ。
 それをわかったうえで、あえて私がここまでになった理由をあげるとするなら、父の影響で、という言いまわしが正しいのかもしれない。
 私の父は、家庭を顧みない人だった。安易にこういうありふれた表現に走るのは自分でもどうかと思うのだが、本当に絵に書いたように家庭を顧みなかった。私には、例えば眠り際父に絵本を読んでもらったとか、例えば食卓の一家団欒で父に学校での出来事を話したとか、そういった記憶が一切ないのである。
 かといって、私の父が家庭を蔑ろにするほど仕事に情熱を傾けていたかというと、それも違うようだった。与えられた仕事を淡々とこなし、決まった時間にいつもと変わらぬ帰路につく。家に着いたら、夕飯を食べて風呂に入って寝る。それが父の生活の全てだった。
 きっと、この世界に存在する大半のものは、父の興味を引くことがないのだろう。おそらく私も含めて。
 父の生き方に対して抱いていた疑問を、いつしか私はそうやって結論づけた。
 そんな父が唯一執着を見せたもの。それがレコードだったのである。父は、普段ほとんど破られることのない生活パターンのなか、ごくまれに自室でひとりレコードを聴いていることがあった。
 幼い私は、ジャズの名盤が流れる父の部屋に、そっと足を踏み入れた。
 空気が細かく振動しているのがわかる。父の背中も震えていた。レコードの生み出した振動が、父の体まで伝わっているのかもしれない。私はぼんやりとそんなことを考えた。
 そういえば、レコードには人には聞こえない周波数まで録音されている、と聞いたことがある。感知出来なくとも、その振動が体に安らぎをもたらす、と。父に教わったのだろうか。それももう忘れてしまった。

 
「キクさん」
 私は、しばらくの間緩やかに続いていた会話に、区切りをつけようとした。私には、今日、彼に伝えなければならないことがあるのだ。

「ん?」
 キクさんが短く反応した。私は続ける。
「机の上、見てください」
 キクさんは一瞬だけ不思議そうな顔をしたあと、素直に作業用の机の方を見遣った。小箱がある。
 こちらを振り返るキクさんに、手に取るよう促した。
「朝私が置いたんです。気づきませんでしたか」
 私がそう問うと、キクさんは戸惑ったような表情で私を見つめかえした。
「開けてください」
 キクさんが私の言葉に従った。キクさんの目が見開かれる。
「誉ちゃん、これ」
 中身は指輪だった。私が今日のために用意したものだ。

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