小説

『檸檬を持って大海原へ』薮竹小径(『檸檬』梶井基次郎)

 ああ、と少し納得するも、「この鞄で学校来る人なんていないよ。だって現金入れたりするやつだよ、たぶん」
 「さあ」と言って友人は再び耳のパチンコ玉を入れようとする。
 「それ抜けなくなったらどうするの?」
 「そう言えば、友達が抜けなくなって耳鼻科に行った、て言ってたなあ」
 「え、耳抜きじゃあ取れないの?」
 「なにそれ?」
 ふん、と実演してみる。
 「ああ、それって耳から空気出てるの?」
 どうだろうか、と耳を手で覆って実演してみる。
 「出てないかもしれない」
 「うん、出てたとしても抜け出すほど出てないよね、たぶん」
 何度か耳抜きをしていると少し耳が痛くなる。俺たちみんな骨折り損、と頭ではまだエンドレスしている。
 「きっと、」友人はパチンコ玉を耳に戻そうとしながら確信に満ちた声で言った。「それは、爆弾に違いない」
 てか、耳鼻科でどうやって出したの、と聞こうとするが友人はもう受け付けてくれない。
 ――爆弾。言われてみると、無条件に逆らうことを許さない時を刻む音が聞こえてくる気がする。すると突然、怖くなった。寝る前に死を考えるように、そこはかとない暗闇に落ちるように不安になった。そして、爆弾だあ、と叫ぶといつも死にてえ、とか言っている同級生たちが友達のことを見捨てながら、走って逃げると思うと、楽しくなった。いっそ叫んでみようかと思う。そうすればこの湿気もどこかに飛ばされていくんじゃないかと思った。
 辺りを見渡す。携帯、文庫本、手帳、と殆ど誰も教授のことを見ない。見ている人は、友達と口を近づけあって、くすくすと笑っては教授のことを盗み見る。みんな知っているんだ、と気が付く。みんなこの中身が爆弾だったと知っているんだ。いくら勉強しても、この爆弾が爆発すれば、そんなもの徒労。いや、万が一爆発しなくても結局は死ぬんだ。おれ達みんな骨折り損。
「――じゃ、」とまた教授の声がいきなり聞こえてくる。周りを見渡すと皆が教授の方を向いている。これは凄い。いきなり教授の講義に音が付いた。いやさっきから音はあったのだ。それを何かが妨害していた。あ、モーゼだ、と呟く。ん、友人が聞き返す。
 「モーゼが海を割ったのと同じだよ」興奮して言う。
 「だからあ、」と友人が首を傾げてるので、続ける。
 「教授の最後の言葉っていきなり耳に届かない?」
 「ああ、それは分かる。それまでは雑音なのになあ」
 「その言葉が幾多の聞きたくないを横に退けさせて耳に届くのが、モーゼみたいだと」
 「ああ、確かに」
 その時、確信に満ちた逃れようもない時を刻む音が聞こえた。え、と呟いて振り向く。そこには異様な存在感を放つ鞄があった。なあ、と友人を呼びかける。
 「これ本当に爆弾?」間抜けな声になった。
 「さっきそう言った――」、え。その瞬間、光が先に来た。ああ、こんな感じなのね、と思う。その次に衝撃波が到来する。
 ――、なんてことはなく、静かにチャイムが鳴り響いた。後ろを振り返るとそこには、ぽつんと鞄が置かれていた。

 ゴールデンウィークを終えて大学に行くと少し学校全体に余裕が生まれた気がした。相変わらず溢れんばかりに人はいるが、人が生活できるようになった、ような気がする。ゴールデンウィークにかかる少し前から早めに自主休講していたので、学校は久しぶりだった。人の間をするすると抜けて、あの教室に行く。なんでまた、と横で友人がぼやく。ならついて来なくてもいい、と言うと、いやいいよ、とついてくる。

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