小説

『子供心』伊藤円(『浦島太郎』)

 突如、風船が割れたような笑い声が響いた。反射的に振り返ると、
「まだうごいてるよ!」
 輪になった兄弟の中心に黒い塊が二つあった。カブトムシ相撲か、ふと太郎は思ったが、それにしては個々のでかさが違った。
「……あっ」
 そして、ふいに太郎は事態を理解した。
「オニーチャン、ホラ、まだうごくんだぜっ!」
 あまりに無邪気に兄弟は笑った。あまりの失望に太郎は言葉が出なかった。
――『トーサン』が、殺されてしまった。
「あっ、太郎くん、すごいね、死んでもまだ動くんだね、強いんだね」
 亀田までもお気楽なことを言った。それでも、太郎は、何も言わなかった。どころか、これはあげたものだから、と、何とか事態を納得しようと努めていた。今年一番の収穫。それを奪われ、蹂躙された。そんな事実を、正視できるはずもなかった。陽気な笑い声の中、あげたもの、あげたもの、あげたものだからしかたない、何度も繰り返して、かえろう、かえろう、『トーサン』を回収してウチにかえろう、願望らしきものが膨れて、
「うるさいネッ!」
 その時、どこからか怒号が響いた。ぴたり、兄弟たちの笑みが消えて、いやに張りつめた空気。太郎もつられて静止していると、
「何を騒いでるんだヨ! アタシは寝てるんだ! 静かになさい!」
 ばさり、キッチンの横の壁が捲れて、一人の老婆が現れた。あそこは布が吊ってあったのか、そりゃ、さすがに狭すぎるものな。と太郎はふと納得した。
「……アラッ、なんだい、お客さんかい」
 しかめっ面がぱっ、と柔らかくなって、
「そうだよ! 太郎くんっていうんだ!」
 どこか誇らしげに亀田が言った。
「そう、太郎くんね。こんにちは」
「こ、こんにちは」
 太郎が答えると、老婆はのし、のし、台所に歩いていった。冷蔵庫を開けると、何か皿を持ってテーブルに近寄ってきた。ことん、と置かれた皿には、サトイモらしき白い玉が幾つも転がっていた。
「ほれ、おやつ。喧嘩しないで食べるんだよ。それから、一寸だけ静かにしてね。あたしゃ、ほら、こんなおばーちゃんなんだからね」
「えー! オカシがいいっ!」
 慣れたふうに兄弟の一人が騒いで、
「おだまりっ!」
 お馴染みのように老婆が制した。そして柔和な表情を取り戻すと、ぽん、ぽん、太郎の頭を軽く撫でた。曲がった腰を抑えながら、たぶん、部屋に戻ろうとして、
「なんだいこりゃ、きたないね! 捨てちまうからね!」
 と吐き捨てると、畳に転がったカブトムシの残骸を拾い上げた。あっ、と太郎は声を漏らしたが、聞こえていないのだろうか、老婆はそのまま歩いていって、ぼすんっ! とゴミ箱に放り投げた。
 ――『トーサン』が、捨てられた。
「……はは、あはは、あははっ!」
 何故だか太郎は笑ってしまった。心は悲しくて堪らなかった。でも、止まらなかった。それにつられて亀田も、兄弟も笑い始めた。
「さ、太郎くん、食べよう!」
 やがて亀田が言い出して、兄弟たちの手が一斉に皿に向かった。素手でサトイモを掴み取って、むちゅ、むちゅ、汚らしいような音が部屋を満たした。一瞬、ほんの一瞬だけ躊躇したが、太郎は素直に兄弟たちに従った。一つ、口に放り込んで、
「……あっ、んまい」
 思わず太郎は呟いた。醤油と砂糖の甘じょっぱい味。それは、年に一二回行くおばあちゃんの家の匂いがした。ほっとする、でも、何となく寂しいような、風通しの良い家。それでも布団に入れば、ウチと同じ肌触りがする。夜更けを過ごす大人たちの喋り声に、まるで解らない話に、そっ、と耳を澄ましたりして……。
「へえ、そうかい? かわりものだなぁ、太郎くんは。もっと食べる?」
 亀田がもう一個勧めてくると太郎はそれを断った。かえろう、そんな言葉が、今度は固い決意となって太郎を突き動かした。

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