小説

『吾輩は亀であった』じゃいがも(『吾輩は猫である』 夏目漱石、『浦島太郎』)

吾輩は亀である。名前はまだない。
どこで産まれたかなどの記憶は、すでに忘却の彼方である。
ただ嵐に遭い、浜辺に打ち上げられたところを、乙姫様という美しい姫様に助けて頂いた事だけは、しかと記憶している。
乙姫様は、かつて海底に栄えた竜宮族の末裔
で、海の底に立つ竜宮城という城の皇女であらせられる。
ところが、この乙姫様、なかなかの曲者。
表向きは立ち振る舞い麗しく、王や王妃にとっては珠の如き皇女なのだが、本性は違う。
下働きの者にはきつく当たり、わがまま放題、やりたい放題。
更には吾輩の命を救った事に恩を着せ、方々より自分好みの殿方を集めさせるのだ。
手筈は、こうだ。
吾輩は適当な浜辺に出向くと、近くの漁村の子供らに菓子を与え、吾輩に暴力を加えさせる。
大抵、殴られ損に終わるのだが、稀に、子供らから吾輩を救ってくれる若者が現れる。
吾輩はその若者を吟味し、乙姫様がお喜びになるであろう美しい若者だけを、礼と称して乙姫様の待つ竜宮城へと連れてゆくのだ。
連れてこられた若者は、最初こそ乙姫様の美貌に心奪われ、毎夜繰り返される宴に夢見心地となる。
だが、いよいよ乙姫様の寝所に招かれると、そこで乙姫様の本性を知るのである。
乙姫様は若者を足蹴にし、暴言を浴びせ、まるで猫が鼠を弄ぶように、若者の心も身体も蹂躙するのである。
若者はたちまち我に帰り、家に帰りたいと懇願する。ここで乙姫様は、素直に若者を家へと帰すのだが、必ずある物を土産として持たせるのである。
それは、「玉手箱」と呼ばれる竜宮族に伝わる罠で、その玉手箱から立ち込める特殊な煙を浴びた者は、たちまち老人の姿に変わってしまうのだ。
それだけなら、まだ良い。運の悪い者はその後、動物や昆虫などに変わってしまう。
乙姫様は若者の悲惨な最期を想像し、それを肴に酒を飲む。誠に性悪なお方なのである。
そして吾輩はまた、美しい若者を捕まえる為に、とある浜辺へとやって来た。
吾輩は早速、近くの漁村の子供らに甘い菓子を与え、吾輩に暴行を加えさせた。
すると程なくして、一人の若者が現れ、子供らをかき分け吾輩を助けてくれた。
見れば、乙姫様の喜びそうな美しい若者である。
吾輩はいつものように礼と称して、若者を竜宮城へと運んだ。
若者は名前を「浦島太郎」といった。
乙姫様は太郎をたいそう気に入られ、その日から礼と称した乱痴気騒ぎが始まった。
太郎と乙姫様は連日、浴びるように酒を飲み、豪華絢爛な数々の料理を喰らい、踊り狂った。
この太郎という男も、初めの数日は殊勝な素振りを見せていたが、場の雰囲気に飲まれ、すぐに馬脚をあらわした。

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