小説

『魔法使いのおはなし会』金銀砂子(『シンデレラ』)

 病院にもかかってみたが、医師から告げられたのは、半ば予想していた通りの「精神的なもの」という診断だった。睡眠薬の処方を希望するかどうか尋ねられ、その他に言葉は特にはなかった。至極、対処療法的だ、と思いながらも、光太郎にはそれ以外に術がなかったので、小さな白い紙袋だけ持ち帰った。
 不足のない日常。生活にも困らず、悩みもなく、たまの休日の朝に、すこしの朝食と、すこしの珈琲と、本を読む時間さえあればそれでよかった。それでも、うまく眠れない日々が続いていた光太郎は、どこかに解決の糸口はないかと探していた。理由がわからないのなら、なんとなくでも「よい感じ」のするものを探すしかない。そうしてなんとなく「よい感じ」がしたのがこの読み聞かせだったのである。
 もともと子どもは嫌いではなかったが、取り立てて好きだということもなかった。それに人前はあまり得意ではない。学部生向けの講義も未だに緊張するくらいだ。勿論読み聞かせなんてはじめてのことだし、上手くやれる自信など全くなかった。けれども、はじめての日から、談話室に満ちたあたたかい空気と、子ども達のエネルギーがとても心地よかった。誰かから自分の行いが喜ばれることが嬉しかったし、いつも全力で向かってくる子ども達がいじらしくていじらしくて、胸がくしゃっとなった。小太郎は、久しぶりに顔中で笑っている自分に気がついた。
 不眠の症状に変化はなかったが、そんなに都合よく行くはずもない。日々の嬉しみが出来たのだからそれだけでいいと、この毎週金曜の読み聞かせを続けていた。
 
 ひとつ目の『シンデレラ』で、ちょうど魔法使いがシンデレラに魔法を掛けた頃、ふと前に目をやると部屋の隅の方に一人の子どもが立っていた。小学校高学年くらいだろうか、華奢な身体によくなじんだ上等の服を着ている。胸くらいまである髪が顔に掛かるのも構わず、じっとこちらを見つめている。意志の強そうな目だが、どこか空虚だ。と、光太郎と目が合うや、瞳に寂しげな色が浮かんだように見え、その刹那、光太郎の口から言葉が出ていた。
「そこじゃ見えづらいだろう。こっちにおいで」
 はじめ、自分にかけられた言葉だと気付かなかったのか、少女はほうけた顔をしていたが、光太郎がにっこりして手を招くと、こくりと頷いて前の方に座った。
 そうして『シンデレラ』を読み終え、ふたつ目の、最近テレビで人気の魔法少女が活躍するアニメ絵本を読んでいる頃には、その少女も他の子ども達にすっかりなじんでいた。

 光太郎が「めでたし、めでたし」と言い終わると一瞬の間を置いて、わあっという声があちこちから上がり、部屋は大きな拍手に包まれた。それを合図にして、部屋の外に居た保護者達が談話室に入り、我が子のもとへと集まってきた。
「みんな楽しかったですか?コウちゃん先生にご挨拶しましょう」
 沢木さんが手を叩きながら呼びかけると、子ども達は親の隣でぴしりと立ち上がり、声を揃えて言った。
「コウちゃん先生ありがとうございました。またらいしゅう、さよおなら」
「はい、さようなら。また来週お会いしましょう」
 光太郎が笑顔で応えると、親達からも拍手が送られた。
 子ども達が連れ立って帰路に就くのを見送りながら、光太郎は毎度のことながら、どうしてこんなに子ども達が愛しく思えるのだろうと考えていた。自分はこの読み聞かせの時だけで、他の、子ども達のむつかしい面を見ていないからかもしれない。けれども、愛しく思うその気持ちに偽りはないと思った。
 沢木さんと後片付けを簡単に済ませ、図書館を出る頃には夕闇はさらに深まってもう真っ暗だった。甘やかに秋匂う風が吹いている。風は冷たかったが言い知れぬささやかな多幸感が光太郎を包んでいた。もしかしたら今夜は眠れるかもしれない。
 図書館前の並木道を歩き始めてしばらくすると、すこし先の街灯の下に人影があることに気がついた。小さな人影はこちらを見ているようだ。
 それはおはなし会で光太郎が声を掛けたあの少女だった。真っ黒に見えた髪は街灯を受けてペールグレーに輝いている。風になびくと透き通る硝子のようだ。
 連れ添いの姿が見えないことを不思議に思い、光太郎は声を掛けた。
「女の子がひとりだと危ないぞ。お家の人は一緒じゃないのかい」
「わたしは女ではないし、誰も一緒ではない」
 思わぬ応えに、光太郎はすこし慌てて言った。

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