小説

『北風と太陽 』実川栄一郎(『北風と太陽』)

「なるほど。たしかに雲ってのは、北風や太陽のような存在感はないもんな。それに、ただの水蒸気のかたまりだから、モヤモヤしているだけで、つかみどころもないしな」
「じゃあ、その話でいくと、北風と太陽の力くらべは、けっきょく引き分けに終わってしまったということかい?」
 牧田が尋ねると、ママは少し間をおいてから答えた。
「それがそうじゃないのよ。太陽を覆い尽くした雲は、旅人の上から激しい雨を降らせたの。すると、土砂降りの雨で、旅人の着ている衣服は、またたく間にびしょ濡れになったの。その雨はすぐに止んだのだけど、旅人は、ああ、こんなに濡れてしまって、このままでは風邪をひいてしまうと思い、慌てて着ているものを脱いで、衣服にしみ込んだ雨水を絞りはじめたの」
「…………」
「そうやって、雲は、日ごろから北風と太陽に抱いていたコンプレックスを解消させたのよ」

 スナックを出て腕時計に目をやると、終電にはまだ時間があった。
「どうだい、もう1軒、軽くいかないか?」
 私は、後ろからついてくる2人を振りかえった。
「そうだな、もう1軒いこう」
 牧田がそう答えたので、私は山村に目で聞いた。
「俺はもう帰るよ」
 山村の返事はそっけなかった。
「なんだ、もう帰るのか?」
 仕方なく、私は牧田と2人で2軒目の店に行った。だが、おかしなもので、2人だけだと調子があがらず、会話もはずまなかった。けっきょく、私たちは、1時間も経たないうちにその店を出て、駅に向かって歩きはじめた。と、そのときだった。
「あれ、山村じゃないか?」
「えっ、どこだ?」
 私は、牧田の視線の先に目を向けた。交差点の近くにタクシーが停まっていて、その横に山村が立っていた。山村の隣りには連れの女がぴったりと寄りそっている。街灯の明かりに照らされて、その女の横顔が見てとれた。2人は、ちょうどタクシーに乗りこむところだった。
 私と牧田は、思わず顔を見あわせた。
「あいつ、珍しくつきあいがわるいと思ったら……」
「ああ、どうやら俺たち、雲にまんまとやられたようだな」
「それにしても、あいつ、どうやってママに雨を降らせたんだ……」
 山村とママを乗せたタクシーが走り去っていくのを見送りながら、私も牧田も、なぜか微笑んでいた。

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